「木工のはなし」を読んで

1993年 早川謙之輔著

この本は松本に行った時にふらっと寄った古本屋でたまたま見つけた。松本は民芸家具が盛んでこの本屋の近く民芸品を扱うお店がいくつかある。この本屋にも民芸関係の書籍や木に関する。大学に入る直前くらいから工芸に憧れを抱いていた。きっかけは受験のために訪れた金沢だった。

私は環境デザイン学科という学科が日本の公立の美術大学では金沢美術工芸大学にしかなかったため受験のため金沢に何度か訪れた。一つの作品を作るのではなく空間全体を作れることに惹かれて環境デザイン学科を選んだのだと思う。また絵の技術にあまり自信がなく思考の重要性の比重が他の学科よりも高そうだったのもあった。金沢21世紀美術館で開かれていた工芸とデザイン展や工芸の公募展を見て衝撃を受けた。生活の道具がこんなにも美しいものなかと。素材の美しさにも引かれた。それまで工芸を意識して見てこなかったし、金沢という場所も学校を調べるまでほぼ知らなかった。それまでの自分にとって美術とは教科書に載っている作品と地元の美術館に収蔵されている作品が全てだった。街の中にアートと工芸があり文化度が高い金沢に惹かれて規模は小さいが東京にはない純度の高いものがあるローカルがあるということにもここで気づいた。それまで文化は東京にあるのもので地方は中心の代替品だと考えていた。それから三ヶ月後初めて自分の目的を持って松本を訪れた。自然と文化が両立していてとても感動したことを覚えている。自然光のもとでみる作品はとても輝いて見えた。そこで木工作家の三谷龍二さんを知った。それまで木工とは丁寧に作られているが、なんだかデザイン的に野暮ったいというイメージを持っていた。三谷さんの作品は洗練されていて使っていると生活を感化してくれるような存在だと感じた。

ものづくりにおいてクオリティを担保するためにはデザインも重要だがそれを実現するためのクラフトマンシップも大切だと考える。作る側の都合にだけに囚われないで発想することは大切だが、制作する手によって考え出される発想もある。木材の加工技術は幕末から明治時代が一番高かった。木材の需要が減るに従って求められる技術も低くなっていく。一度失われた技術は簡単には戻らない。その時代にあった技術でものを作ることは大切だが今作られているものが50年100年後も人々に使われているだろうか。技術が進歩する速度が早くなればなるほど新たなものが生み出され、一方は捨てられていく。新しいものの方が良いと皆が信じ込んでいる。プロダクトに比べて工芸は時間のスケールが大きい。建築も本来100年単位のスケールで考えていたはずだが日本の場合、住宅は30年経てば建て替えと言われる。これだけ技術革新や世相の移り変わりが著しい世の中だから仕方がないのかも知れないが、近視眼的なものの見方が強くなっている。必要でないものをいかに売りつけるかということにデザインは加担してしまっている。

デザインを勉強する身でありながら工芸には強い憧れを抱いている。古民家もまた好きなのは素材や手法に制限があるからこそ生まれる美があるからだとおもう。日常と美術は分離したものではなく日常の中に美をもたらすことができるものに惹かれる。デザインは考えついて図面を引いてプレゼンをして誰かに作ってもらう。自分で手を動かして最終成果物を作ることはしない。最初から最後まで自分の手で作ることができるのは羨ましい。発想はあるが技術がないのだ。どんなものを手を介して作られる。どんなに素晴らしい案を考えついたとしても現実のものとしてクオリティを決めるのは動かした手なのではないだろうか。