木と物づくりについて考えた

 

木工作品の多くは作る側の都合が目についてあんまりきの持っている生命力が感じられないものが多い気がする。高度な加工技術を発揮したいとかこういう形が加工しやすいとかそう言うことが伝わってきてしまう。木と人は途方もない時間の付き合いがある。特に日本人にとって木は身近な存在で木は斯あるべしという形が手を動かしていると無意識のうち出てまう。伝統的な技法は当時最先端で高度に発達していても現代の空気をどこかに入れないと凝り固まってしまう。技術が全面に出てしまい、作品を見ているというより技術を見ているように感じてしまう。作品を作り上げるには無論それを成り立たせる技術も必要だが精神性が特に問われる気がする。それは手を動かす前の作品を作るモチベーションであり、仕事に対する真摯さでもある。目の前にしてそこにある作品は氷山の一角でしかないのだ。

今年の8月に国立新美術館で開催されていた古典x現代展で江戸初期の僧侶円空の仏像と現代の彫刻家棚田康司さんの彫刻を対比されて展示されている部屋があった。存在感は円空の仏像が圧倒的だった。仏殿という背景を剥ぎ取りホワイトキューブの中でも飛騨の奥深い山を感じさせた。そこには縄文以来、日本列島に地下水のように流れているアニミズム信仰と釈尊への信仰が混ざり合った日本独自の信仰の形態がはっきりと伝わってきた。ああなるほど、神仏習合とはこういうことなのかと。

何百年と拝まれた仏像と現代の彫刻を比べるのは無理があるかもしれない。信仰は個人を超えたところにある。木という人間の存在を超越したものと対峙する時、自然への畏敬の念が起こらなれば木を生かすことができないのではないだろうか。そこにはある種の宗教性が帯びてくる。シェーカー教団が作り出した椅子や道具もジョージナカシマの椅子も信仰と切っても切り離せない。木を物づくりする上での素材、プロセスとしか考えられないようではダメだろう。技巧か精神性かという問題を突き詰めて考えると結局そこに行き着くのではないだろうか。