5月11日 野菜から考えた無常と具体的であることについて

 

 実家に用事があり、山梨に帰ったらCOVID19の影響で東京に戻れなくなってしまった。大学も閉鎖され暇をしていたら、兄が畑を手伝ってくれという。幼い頃はよく親と一緒に自宅の庭の小さな畑を手伝ったりした。しかし上京し一人暮らしを経験してから農作業を手伝うと感じるものが大きく違う。兄の畑は基本的に無農薬でやっている。農薬を撒かないということは当然ムシは寄ってくるし、スギナなどの雑草がたくさん生えてくる。土を耕し、マルチを開け、種を蒔いても呆気なくキジバトに食べられてしまう。畑も自然の生態系の一部を切り取って人間の都合に合わせて利用しているだけということが実感させられる。土を掘ればミミズやなイモムシやらが出てくる。兄曰く、微生物が豊かな土壌でないと野菜がうまく育ちにくいらしい。野菜を育てるには土と肥料があればいいんじゃないと素人目には考えてしまう。しかし、そこにはイモムシだったり、ハトだったり、雑草だったり食うか、食われるかの生態系が確かに存在している。

 農家でない私たちは野菜と過ごす時間はスーパーで手にとった瞬間から、料理し口に入れる瞬間までの付き合いである。その背後にある野菜ができるまでの数ヶ月という時間ほとんど意識されない。売り場ではあたかも需要と供給の関係だけで野菜が並んでいるかのように錯覚してしまう。消費において過程は消えて無くなり、結果だけが私たちの目の前に並ぶ。その背後には消費される時間よりもずっと長い時間が隠れている。特にスーパーに並んでいる野菜は見た目がキレイで規格通りの量産品のように感じてしまうことがある。消費者がそういう野菜を望んでいるから仕方ない。味、栄養素が同じであっても形、色で判断される部分が大きい。

 ある偉いお坊さんの話で、人間は無常という状態を頭で理解することがとても苦手らしい。現実を固定したものと考えて観念化した方が計画も立てやすくなるし、未来へ見通しがきく。ふと無常とはとても具体的なことではないかと考えた。自然はどこまでも具体的な存在だ。どんなに細部を見ていっても何かしらの要素がある。人は具体的な存在を具体的なままでは認識できない。ある部分で抽象化し記号化することで世界を認識でき、言語化することができる。体を動かして作業をすることで初めて野菜が自分の中で具体的な存在となったのだ。野菜が食べられる状態までの条件の一つでも欠けてしまったら野菜はできない。一つ一つの具体的なことを知っていくことで物事が成立しているのは無常であることを実感する。

 

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