なぜ就職という現実の前に立ちすくんでしまうのか

これは単なる弱音や不平不満かもしれない。立ちすくんでしまうには自分の内面的な原因だけではない気がする。とにかく自己責任論が跋扈しているこの日本社会。鬱という言葉が一般化したりADHD診断が話題になったり。やっぱり多くの人が生きづらいと感じているから話題になるのではないか。

今まで学校という場に真面目に通い続けてきてはや15年。保育園も合わせれば19年。人生のほとんどの時間を学校という空間で過ごしてきた。そこでは多くのことを学んだ気がするし、多くのことを経験してきた気がする。そして、現在、22歳大学4年生一般的には就活をして就職し社会に出て一人立ちする時期になってしまった。社会に出て働く。生産人口と呼ばれる人たちは6720万人いる。それぞれが自分や家族の生活を支えるために働いて稼いでいる。資本主義社会では当たり前だが資産家でなければ労働をして賃金を得なければ収入が得られない。令和の世には物々交換で生活を成り立たせている日本人はごく一部だろう。学校は学問をする場でもあるが社会へ適合するための訓練所といった面もある。何かしらの知識や技術を身につけてそれを生かして職に就く。経済学的に言えば学習をして自分を商品化し労働市場における市場価値を高めることだ。雇用主は賃金を払って労働者を雇用する。学校には存在していなかった市場原理にいきなり身を晒すことになる。トレードをやっている学生以外にとって経済とはせいぜいアルバイトで得られるお金や親から貰う小遣いをどうやり繰りするかという程度のものだろう。お前の価値はなんだ!どのように企業に利益をもたらす人間になるのか!なんて問われるわけである。それに加えてこの国は商品化されていない人にとことん冷たい。まるでビクトリア朝時代の英国の用ではないか。商品化しか受けられない生活保護を受給する人は非人のように扱われる。サッチャー政権下のイングランドでスターになったザ・スミスのボーカル、モリッシーだって生活保護を受けながら初期は創作活動をしていた。新自由主義は進んだが自由になったのは働かせる側だけだ。それは雇用、非雇用だけの問題ではない。下請け、元請けの企業の間でもその問題は起きている。どんなに働いてもその業種になったらバイト以下の賃金で働かないといけないなんておかしいではないか。だいたい生まれた時から失われた○○年とかやってること自体やる気をなくす。いつまで失ったままでいるつもりなのだろう。社畜になるために一生懸命学校へ行ってきたのだろうか。日本は国の借金で破綻するとか言ってるけど教育や養育費は家計への依存率が先進国の中でトップだ。教育は家の問題だから家計でなんとかしてねということだ。子供は家で育てるべきと考えられているからではないだろうか。社会に出てもう一回学び直そうと思っても学費が高かったり暇がなかったりなかなか現実的でない。中学から大学までの学習の貯金で定年までの仕事をこなしていくのは生産的でないと思う。長時間労働、低賃金とくれば新たに勉強をしようという気力は湧いてこないのではないか。北欧諸国のように高い税率で高福祉を日本で実現しようとしても現実的でないのは税金の使われ方が不透明というのが大きいのではないか。政府の事業で何百億が実体のない企業に流れることがしょっちゅう起きていれば不信感も大きくなる。納税した人が納得できる使い方を可視化できないと北欧諸国のような高負担高福祉は実現できない。コスト削減のもと社会的インフラや福祉が切り捨てられていく。自らの労働力を商品化しなければ文化的で最低限の生活は保証されない。またはどん底に落ちなければ福祉は受けられない。やっぱりこの国には社会という概念が共有されていないじゃいないか。

現実には考えらなければならない問題は山ほどある。しかし、そのほとんどは個人ではどうしようもない。じゃあ考えるのをやめれば楽になるのか。気がついた時には現実的な問題としてこの身を襲うだろう。打算や損得勘定を抜きにありのままで生きられたら完璧でなくても幸せになれるんだろうな。その境地に至るには人生に転んだり考え続けないと到達できないと思う。前向きになろうとかご機嫌でいようとかいうけど自分なりに世の中のことを知ろうとすると暗くなる情報しか手に入らない。日本のクラフトマンシップは江戸時代から貯金を食いつぶし、経済は高度成長期からの貯金を食いつぶしてなんとかやっている。未来に対する不信感が募るばかりだ。人が人として扱われる場が少なくなっているような気もする。同じだけ働いているのに雇用形態がちがうだけで賃金が違うっておかしいよね。矛盾がない社会なんてないけどそこばっか目につて心が苦しくなる。