2020/06/10 日記

一日に2本も映画見てしまい、まさに暇な大学生だ。映画を見て、本を読んで感じたことを言葉にするようになった。いつまで続くか分からないができる範囲で続けてみたい。一度言葉にすることを覚えてしまうと頭の中で文章が溢れかえって現実がよく見えなくなってしまう。ただひたすらにインプットをしそれを言葉にする日々は職についたら決して戻ることはできない日々だろう。そんな贅沢な日々を送っているわけだが現実には社会に何も働きかけていないわけで自分とは何者でもない透明な存在である。いくらありがたい言葉をインプットしても行動に移さなければ意味がないのでないかと考えてしまう。一人でじっくり本や映画に向き合えることは幸せなことだ。今文章を書いていることが今後の人生で仕事に繋がったらいいななんて打算的なことを考えてしまう。いくら物語が前向きに人生を歩もうといっても自分は何にもできない生ぬるい環境にいるただの大学生ではないかと考えてしまう。自分ではどうにもならない問題が多すぎる。頭は使えば使っただけ賢くなるというからいろんなものを見て考えている今は無駄な時間ではないのかもしれない。知識は多くても困ることはない。社会から切り離されひたすらインプットをしていることの意味はいまは楽しいというより求めているからしているという気持ちだ。この時代の自分がこんなことをしていたのはこんな意味があったのか気づくのはいつも過去を振り返った時だ。テレビの中、新聞の中にも現実は潜んでいるが勿論映画の中にも現実はある。フィクションの受け入れ方と現実の理解の仕方は全く違うものではなく同じものと考える。ニュース記事も小説も現実を見て、それを人の頭を介して記述したものだからだ。ものの考え方、捉え方を学ぶことはわかりやすい効果や利益があるわけではない。

文章に記述することでぼんやりと現れては消えていった考えがはっきりしてきた。またわかりやすい文章を書くのは難しい。今まで美術学生といことで文章を書くということを疎かにしてきた。考えをまとめることができるということは思考に影響を与えるような気がする。スケッチもある種の世界の捉え方だが、文書を書くことで自分の考えがなんとなく見えてくるような気がする。文章は思考に影響を与え、思考は手に影響を与える。デザイナーもアーティストも文章をかけなければならないと思う。学生の作品のキャプションは全体としてはなんとく言いたいことはわかるんだけどなんだかよくわからないことが多い。自分がどんな文脈でどんなことをしているか自覚することは必要なことだと思う。美大生は思考を手に頼りがちである言葉でもデザインはされている。自分もこのまま社会に出ていいのだろうかとうい不安がつきまとう。大学四年間で学んだことはその分野のほんの一部でしかなかったという気持ちが強くなってくる。一体これまで何を学んできたのだろうか、学んだことで何ができるのだろうか先が見えない。デザイン課題では最善のものを作ろうと自分なりに努力してきたつもりだ。だが大学内での評価になんの意味があるのだろうか。社会から見たらお遊びに見えるかもしれない。デザインや建築の実務的な部分を学ぶ場ではないのだと今更ながら気づく。実務的なこと学びたいのなら専門学校で十分だろう。考え方、ものの捉え方は身につけたからといっても明日から役に立ちますよというものではない。一つのジャンルのことを考え続けることが苦手な自分にとっては大学という場はあっていたのかななんて思う。ついつい隣の分野が気になってしまう質なのだ。物事はそれ単体では成り立つことなどあり得ない。形や色は流行り廃りがあるし教える側の癖を押し付けないためにも、なぜそのものが成り立っているのかを重視しているのだろう。また考え方を身につければ違うジャンルでも活かすことができる。世界は広いし人生は長いデザイン史、建築史の中にある世界だけが世界ではない。そういうことを学んできたのか。専門的な技術や知識も多少は身についたかもしれない。大学生ならではの体験も色々できた気がする。友達もできたし大切な人もできた。大学なんて大したことないよってモラトリアムだよっていう人もいる。あくせく働いた親の金を四年間使って好きなことをする。時には怠けてしまうし、気がめいってしまうこともある。日本の大学のレベルは海外に比べて低いとも言われている。自分の歩く道がわからない状態ではどっちに足を進めれば良いのかわからず立ち竦んでしまう。デザイン課題はデザインやプレゼンを身につける場ではなくて自分を見つめる機会だったのか。自分が好きなものは意識的に課題の中に組み込むようにした。積極的に受け入れるようにした。そうすればなぜ自分がそれが好きでどこが好きなのかが見えてくる気がしたのだ。まだ歩むべき道ははっきりしないが見えてきてはいる。そんな気がする。他人のいうことは所詮他人のいうことだ。せっかく見てきたのだから自分を信じているものに従って生きていた方が良いのでないのか。自分の中で理想的な暮らしはぼんやりとイメージがある。企業につとめデザイナーとして働くのは今までアルバイトをしてきてなんとなく抵抗感があるのだ。都市の装飾だけの存在を作りたくない。これまでの資本主義の循環の一部でしかないのは抵抗がある。これからの時代に大量生産、消費、廃棄なんてしてられない。インテリアの更新には大量のゴミが出る。流行とともに数カ月で作りなくなってしまうインテリアという存在は過去のものになってしまう時代がくるのだろうか。自分の暮らし、人生を含めてデザインできる生き方をしたい。消費文化の中にあるインテリアが本当に自分にあっているのだろうかわからなくなってきた。ある意味長い時間の中でどうあるのかを考え地域性を重んじる民芸とは対局の存在なのではないのか。これからの時代はプロダクトに限らずものづくりは民芸的な思考を持って作らないと人類が暮らせない地球になってしまうということまで来てしまったのではないだろうか。作る人と使う人の都合だけではもはや作ることはしてはならない。それもただブルジョワジーの趣味に終始してはならない。とか考えたけどよくわかんないな、デザインはパソコンの画面の中で行われるべきでないと思うしそんなの綺麗事だよっていう人もいる。一人で東京で身を削ってやっていく自信がないだけかもしれない。