「忘れられた巨人」を読んで

カズオイシグロ

あらすじ

舞台は3世紀から5世紀のアーサー王が無き時代のグレートブリテン島。謎の霧が原因で人々の記憶はぼんやりとしてしまう。ある村の夫婦が息子を探しにいく旅に出る。その途中に鬼に襲われたという少年や若い戦士と出会い旅路を共にする。物語が進むにつれて霧の中に隠されてきた真実が明らかになっていく。静かに忘れかけられていた昔話のように語られることで迫ってくるものがある。

集団の記憶

「記憶」それは個人の私的な記憶であり、民族が持つ歴史的で集団的な記憶。霧は人々の記憶を消し去ることでブリトン人が行ってきた異民族のサクソン人への暴虐を隠蔽してきた。主人公のアクセルはアーサー王時代、法や協定を通じてなんとかブリトン人とサクソン人との融和を図ってきた。アーサー王はこの融和を欺瞞とし、暴力の連鎖を断ち切るために協定を破りサクソン人を虐殺する。この虐殺の記憶を隠蔽するために魔術師マーリンは黒魔術を使い雌竜クエリグの発する霧によって人々の記憶をなくしてしまう。竜退治を唱える老騎士ガウェインは実はアーサー王の甥で忘却の霧の竜の守護者だった。サクソン人の騎士でブリトン人への復習に燃えるウィスタンはガウェインを倒しこの竜を退治する。そして人々には記憶が戻るのである。しかし忘れられていた憎しみや復讐の記憶も戻ることで偽りの平和は消え、ブリテンは戦乱に陥るとウィスタンは言う。法や協定で秩序を守ろうとしたアクセル。敵対するものを根絶やしにすることで不安を解消しようとしたアーサー王アーサー王が築いた秩序を守るための竜クエリグとその守護者ガウェイン。忘却の霧を断ち払い真実の記憶を取り戻そうとするウェスタン。真実を追い求めれば軋轢が生じてしまい暴力へ発展してしまうことが現実でも多く起こる。チトー死後のユーゴスラ紛争がそうだ。私たちの日常でも忘却の霧の中で過去に起きた暴力の隠蔽は起きている。アイヌや沖縄と本土人との関係や在日朝鮮人など。だが現状が仮初めの和解であってもあまりも急進的に記憶を掘り起こしてしまうと分断が進み暴力に発展してしまう。融和は竜を殺すことでも竜の霧の中にいることでも訪れないのである。

英雄なき時代

設定がアーサー王がいなくなったブリテン島となっている。アーサー王は大陸からの侵略者であるゲルマン系のサクソン人からブリテン島を守った英雄である。その人物をサクソン人側から描くことで英雄という存在の二面性を描いている。ある集団にとって英雄であった人物は別の側面から見たら残酷な支配者でしかない。多極化が進んだ現代ではもはや英雄像は存在しない。世界に平穏をもたらしていたのは勇ましいアーサー王ではなく、法や協定を重んじていたアクセルだった。アクセルは同じ老騎士ガウェインと比べて妻を愛する平凡な老人として描かれる。クエリグを退治しサクソン人として正義を貫いたウィスタンも結果としてブリトン人への憎しみの連鎖を再び始めてしまうことになる。平和をもたらしたのは英雄的行為ではなく外交や交渉が得意だったアクセルだったのだ。