「モダン・タイムス」を見て

こんな人にオススメ 資本主義社会に疲れている人

          元気をもらう映画を見たい人

1936年公開 チャーリー・チャップリン監督

資本主義批判としてのモダン・タイムス

今見ても色あせないメッセージ性がある。公開から80年以上たった今でも資本主義の労働の問題は変わらずにある。今、アメリカでは黒人差別反対のデモが起きているがこれはコロナ不況による失業によるデモという面もある。社会主義が崩壊しグローバル資本主義の世界になったからこそ、この映画に描かれている問題は普遍的なものとなっている。機械的に働かされ食事すらも無駄な時間をかけないように機械で行われるシーンは非常に印象的である。フォードシステムのベルトコンベアの歯車の一部となり働いていたのだがついには発狂して病院送りになってしまう。たまたま拾った旗を振っていたら労働運動のリーダーだと警察に勘違いされ刑務所に入れられてしまう。しかし、刑務所は彼にとって工場の歯車になるよりは心地よいことに気がつく。汗水流して働くよりも規律を守って入れば食事が出てくる刑務所に居場所を見つけ出所して良いことになっても残りたいと訴える。

デモやストライキによって社会を変えようとするのではなく芸術によって幸せを見つけた。Amazonのレビューでカフェでのチャップリンが歌を披露するシーンの歌詞の翻訳がないと低評価がついていたが、調べてみるとこれは「ティナティナ」という歌でデタラメな言語で歌われたものだ。翻訳すべき歌詞など元からなかったのだ。セリフでなく演者の身振り手振りで物語を作ることと歌詞ではなく歌で伝えるということ。歌詞の内容ではなく歌そのもので人を感動させるというのは当時としては時代遅れのサイレント映画にこだわった彼の思いがあったのかも知れない。この映画の演技は本当に素晴らしく身振り手振りからセリフが聞こえてくるかのようだ。字幕つきの外国映画を見る時に字幕ばかりに目がいってしまい演技に目がいかないことがある。サイレント映画にはセリフがない分余白ができ、より言語以前の心情を動きから想像することができる。チャーリーのデパートでの目隠しをしてローラースケートをするシーンやカフェでのダンスと歌のシーンは彼にしかできない芸だろう。

職についても上手くいかず就職と解雇を繰り返していたチャーリーだったが、ゴダードに出会い働かなければ二人の暮らしは成り立たないと悟る。デパートの夜警をしたり、工場に戻って働いてみたりするが上手くいかない。ある時ゴダードが通りで踊っていた時カフェの踊り子としてスカウトされる。ゴダードはそのカフェでチャーリーを雇ってくれないかと頼む。ウェイターとして働くチャーリーはやっぱり上手くいかない。店長にならば歌を歌ってくれと頼まれる。歌詞を覚えることができなかったがで即興の踊りと歌のパフォーマンスを披露する。そのパフォーマンスでチャーリーは皆に受け入れられる。自分の得意なことで積極的に社会に働きかけることで居場所ができるということだ。

「何もやっても上手くいかないわ」と弱音を吐くゴダード

チャーリーは「Back up, never say die ,we'll get along」と答える。

ただ資本主義や近代を批判するに止まらず人生に光を与えてくれる映画である。

 

「リアリティのダンス」を見て

こんな人にオススメ 

2014年公開 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

ホドロフスキー監督の両親と自身の原体験について物語。父は共産党員でウクライナから移民。母はユダヤ系ロシア人で父の代でアルゼンチンに移民してきた。鉱山の採掘が主な産業のチリのトコピジャが舞台。威圧的な父は男らしさを常にアレハンドロに求める。とにかく妻にも威張り散らしていてシエスタ中に売り物の下着を見ていたらムラムラしてしまい体を迫るなどモラハラ男である。ラテン系の人が多いトコピジャではユダヤ人であるこの家族はどこか疎外感を感じながら生活している。鉱山の作業はダイナマイトによる事故が多く彼らはペストをもっているとまちの人たちから忌み嫌われていた。共産主義者で正義感の強い父は独裁者イバニェスを暗殺を試みサンティエゴに乗り込む。失敗し秘密警察に捕まってしまう。そして命からがらトコピジャに戻ってくるというのが大まかあらすじ。

スターリンを理想的な人物と崇拝するがイバニェス暗殺のために彼の馬の飼育係になるが彼に感情移入して暗殺は失敗する。そのショックで父の両手は動かなくなってしまう。そこで母は父が尊敬するスターリンのなかにイバニェスがあり、イバニェスの中にに彼がいるといい、その肖像写真を燃やすよう促す。これがまさにサイコマジックだ。スターリンを信奉し家庭の中にまでスターリズムを持ち込み、それはイバニェスがチリで行っているのと同じ姿だ。そのことに気づいてしまったショックはスターリンとイバニェスと同一化してしまった自己を破壊しなければ立ち直ることができない。散々な思いをしてスターリズムから決別をした父であったが、この続編の「エンドレス・ポエトリー」では今まで通りの威圧的で強権的な父像に戻っている。息子にとったら堪ったものではないが、フィクションのようにある出来事があったからといって人は図式的には変わることができないということなのだろう。

海辺の行者の挿話が個人的に好きだ。この行者は見た目は完全にやばいやつなのだが、般若心経を唱えながらアレハンドロに三日月と星、十字架、六芒星のペンダントを渡し、これらは坩堝に入れれば一つになると教える。ここに監督の宗教に対する考え方がよく見えてくる。

母はいつもオペラ調で話す。その姿は滑稽なのだが、物語がより演劇的に見えてくる。母なるものは自分を超えたところあるということなのだろうか。「エンドレス・ポエトリー」で初めてできる恋人役と同じ俳優なのは予算の都合なのかも知れないがエディプスコンプレックス的な仄めかしなのだろうか。

この物語は生を受けてから物心ついてから何と無くこの世界が自分の居場所でないような感覚を描いている。彼がこの世界に着地するのは「エンドレス・ポエトリー」で家出をした時なのではないだろうか。

「木工のはなし」を読んで

1993年 早川謙之輔著

この本は松本に行った時にふらっと寄った古本屋でたまたま見つけた。松本は民芸家具が盛んでこの本屋の近く民芸品を扱うお店がいくつかある。この本屋にも民芸関係の書籍や木に関する。大学に入る直前くらいから工芸に憧れを抱いていた。きっかけは受験のために訪れた金沢だった。

私は環境デザイン学科という学科が日本の公立の美術大学では金沢美術工芸大学にしかなかったため受験のため金沢に何度か訪れた。一つの作品を作るのではなく空間全体を作れることに惹かれて環境デザイン学科を選んだのだと思う。また絵の技術にあまり自信がなく思考の重要性の比重が他の学科よりも高そうだったのもあった。金沢21世紀美術館で開かれていた工芸とデザイン展や工芸の公募展を見て衝撃を受けた。生活の道具がこんなにも美しいものなかと。素材の美しさにも引かれた。それまで工芸を意識して見てこなかったし、金沢という場所も学校を調べるまでほぼ知らなかった。それまでの自分にとって美術とは教科書に載っている作品と地元の美術館に収蔵されている作品が全てだった。街の中にアートと工芸があり文化度が高い金沢に惹かれて規模は小さいが東京にはない純度の高いものがあるローカルがあるということにもここで気づいた。それまで文化は東京にあるのもので地方は中心の代替品だと考えていた。それから三ヶ月後初めて自分の目的を持って松本を訪れた。自然と文化が両立していてとても感動したことを覚えている。自然光のもとでみる作品はとても輝いて見えた。そこで木工作家の三谷龍二さんを知った。それまで木工とは丁寧に作られているが、なんだかデザイン的に野暮ったいというイメージを持っていた。三谷さんの作品は洗練されていて使っていると生活を感化してくれるような存在だと感じた。

ものづくりにおいてクオリティを担保するためにはデザインも重要だがそれを実現するためのクラフトマンシップも大切だと考える。作る側の都合にだけに囚われないで発想することは大切だが、制作する手によって考え出される発想もある。木材の加工技術は幕末から明治時代が一番高かった。木材の需要が減るに従って求められる技術も低くなっていく。一度失われた技術は簡単には戻らない。その時代にあった技術でものを作ることは大切だが今作られているものが50年100年後も人々に使われているだろうか。技術が進歩する速度が早くなればなるほど新たなものが生み出され、一方は捨てられていく。新しいものの方が良いと皆が信じ込んでいる。プロダクトに比べて工芸は時間のスケールが大きい。建築も本来100年単位のスケールで考えていたはずだが日本の場合、住宅は30年経てば建て替えと言われる。これだけ技術革新や世相の移り変わりが著しい世の中だから仕方がないのかも知れないが、近視眼的なものの見方が強くなっている。必要でないものをいかに売りつけるかということにデザインは加担してしまっている。

デザインを勉強する身でありながら工芸には強い憧れを抱いている。古民家もまた好きなのは素材や手法に制限があるからこそ生まれる美があるからだとおもう。日常と美術は分離したものではなく日常の中に美をもたらすことができるものに惹かれる。デザインは考えついて図面を引いてプレゼンをして誰かに作ってもらう。自分で手を動かして最終成果物を作ることはしない。最初から最後まで自分の手で作ることができるのは羨ましい。発想はあるが技術がないのだ。どんなものを手を介して作られる。どんなに素晴らしい案を考えついたとしても現実のものとしてクオリティを決めるのは動かした手なのではないだろうか。

 

「田園に死す」を見て

田園に死す

寺山修司監督 1974年公開

こんな人にオススメ 上京して自分に悩んでいる人

          70年代のアングラカルチャーについて知りたい人

          独自の世界観に浸りたい人

この映画を見て一番強く感じたのは新世紀エヴァンゲリヲンへ強い影響である。テーマとしては親子関係、女性への強い憧れと恐怖。手法としては自己言及的な主人公、観客を揺さぶるメタ的な演出など。前衛的な映画と言われているが日本の深夜アニメへ元ネタ、元ネタの元ネタ、元ネタの元ネタの・・・と広く深く影響を与えている。ゼロ年代後半から少年時代をアニメを見て育った身としてはどこかで見たイメージが散りばめられていた。前作の「書を捨て街へ出よう」より表現と手法が洗練され純度の高い作品になっている。映像の絵作りは異形の人たちの見世物小屋のモチーフやエログロは1981年の漫画丸尾末広著「少女椿」から古屋兎丸まで広く影響を与えている。ガロの世界観をそのまんま映画にしたと言った感じである。

映画を通しても自分の人生をやり直せなかった私とは何者なのか。父は戦死してしまい不在である。母はいつまでも子供扱いし夫がいない寂しさから閉じ込めておこうとする。帰るべき田舎は思い出のかなで美化される。見世物小屋の中では演者の生々しい猥雑な関係が繰り広げられる。20年前の私、20年前の出来事をもとに映画を作っている私、ひたすらに自己言及を続けている。記憶の虚構性。自分の作品のインスピレーションに自分の幼少体験から得ることへの疑問。幼少体験を一度言葉にしてしまえばそれは体験でなく概念として固定されてしまう。記憶は美化され本当に当時感じていたことから乖離している。そこで20年前を映画の編集作業を通じて、または恐山を通じて追体験する。実際は地主の人妻との駆け落ちは失敗し、ててなし子は村中から疎まれ川に流された。20年前の母親を殺せば現在の私を変えることができると考える。しかし殺せないまま夕食を食べる。そこは田園の民家の壁は崩れ新宿の交差点の前だった。

感想を書こうとしたけどとても文章化しにくかった。細部まで作り込まれた美術と恐山の荒涼とした風景がワンカットそれぞれが絵画として成立するくらい美しい。美しい田園風景の裏には因習に満ちた息苦しい村がある。この映画を一言で言ってしまえば寺山の作家として葛藤が描かれているわけだが、それを表現する世界観が丁寧に作られている。この世代は自己の確立と社会の近代化が重なっている。とても個人的な映画だが似たようなことを考えていた人には深く刺さる作品になっている。あんまりうまくまとめられなかったけどこの映画は言語的体験ではなくて映像的体験ってことなんだろうな。70年代のアングラカルチャーを代表する作品だけど内容は普遍的で映像のクオリティはとても高い。また現代のカルチャーにも大きな影響を与えているので見て損はないと思う。

「書を捨て街へ出よう」を見た感想

こんな人にオススメ くすぶっている青春を送っている人

          表現のエネルギーを感じたい人

この映画は寺山修司監督で1971年の作品だ。寺山修司といえばアングラ演劇四天王と言われ団塊世代サブカル好きに熱狂的な支持を得ていた人だ。今二十代前半の人にとって馴染みはほとんどないがシャフト作品の演出や幾原邦彦監督に大きな影響を与えた。これらのアニメ作品に通じる演出があり元ネタの一部はここなんだなと思った。1970年代といえば学生運動が敗北に終わり挫折の時代らしい。個人的にこの映画で面白かったシーンは佐藤栄作の大きなお面を被って踊るシーンとタバコの銘柄の「peace」の空箱を燃やすシーンと自衛隊募集の紙に放尿しているシーンのモンタージュ。このご時世に安倍晋三のマスクをつけて踊るなんてしたら即炎上で監督の自宅に脅迫状がくるような世の中だ。今からみると言いたいことをこんなにスパッと表現していいのかと驚いてしまう。ちなみに安倍晋三佐藤栄作はどちらも山口県出身で親類関係にある。もう一つは路上でペニスの形をしたサンドバックをイライラしている人に殴らせようとするシーン。本筋とは全く関係ないが一種にパフォーマンスアートのようでもあり公権力への批判のようでもありユーモラスで笑えた。

1970年代は東京では近代化、都市化が進んできてはいるが、寺山修司の故郷の青森ではまだ田んぼが広がり、茅葺き屋根の民家でくらすという環境が残っていたのだろう。あるいは寺山の少年時代においては。寺山は土着的な日本がまだギリギリ残っていた世代なのだろう。青森の母からテープレコーダーでボイスメッセージが送られてきて友達にからかわれるシーンがある。故郷の母という存在は野暮ったくて土臭い恥ずべきもの思いがあったのかもしれない。

一方父親は戦争から帰ってくるも一時期はラーメン屋の屋台をしていたが今は無職だ。主人公が小遣いで屋台を買ってやろうとするが優柔不断な父親はそれを受け入れない。ここには戦中世代はあてにできないという思いがあるのだろう。

学校へ行っても目立つわけでもなく、部活では球拾いで貧乏長屋住まいの少年の焦燥が詰まっている。実験的映像とか言われているけどアラン・ロブ・グリエよりは内容があって楽しめた。田舎出身で上京し主人公と同じくらいの年齢の自分にとって主人公に感情移入できた。結局は革命の夢は敗れ、労働者としてマイホーム主義者になるしか道はないのだ。人力飛行機は遂には燃え尽きてしまうがという点では現在と変わらないがこの映画が作られた時代の熱量がとても鮮やかにうつる。

 

「それでも夜は明ける」を見て

こんな人にオススメ アメリカの黒人の歴史を知りたい人

                                   胸くそな気分になりたい人

2013年公開スティーブン・マックイーン監督

最近アメリカでは黒人男性が白人警官による不当な暴力で命を落とした事件をきっかけにデモが行われている。人種差別は現在進行形で起きている現実だということを突きつけられる。主人公は自由黒人という立場で黒人の中でも特権階級だ。主人公をそこに設定することで普通の人たちにも見やすくなっている。自由黒人は当時アメリカにいた黒人の本当にごく一部だっただろう。マジョリティの真実ではない。しかし、当時の黒人のマジョリティの真実を描いても観る側としてもただただ暗く辛い映像体験になってしまうだろう。彼には帰る家があるが一緒に働いていた人たちは奴隷として一生を過ごす。いずれ帰るんだろうと観る側はわかっているから安心して観ることができる。

「奴隷は私の持ち物だ。」というセリフが多く出てくる。自分は自分自身が所有者であるのが近代社会の理念だ。白人がアメリカ大陸を征服してから数えきれないほどの血が流されアメリカ合衆国がつくられた。ネイティブアメリカンの追い出し、皆殺しにし得た土地に大西洋を挟んだアフリカ大陸から強制的に連れてきた人々を使役し富を築いてできた国アメリカ。アメリカの独立宣言にはネイティブアメリカンの部族同士が築いてきた取り決めが参照されたという。しかしその自由はキリスト教徒かつ白人にしか適用されなかった。野蛮なのはどちらなのだろうと考えてしまう。農園の主人として我が物で土地も人も支配している。本来はどちらも誰かの持ち物だ。(ネイティブアメリカンにとって自然は誰かの所有物なんて考えはないが)日本の中にだってここまで大規模ではないがあちこちで自分の持ち物が暴力的に奪われている。アメリカの白人は野蛮で土地と人の命を奪った大変だなで終わってはいけない。日本も戦前、戦中を通して朝鮮半島、台湾、東南アジア諸国を植民地支配をしてきた。奴隷制はなかったが暴力による支配という点においては同じだろう。現在も沖縄に米軍基地を押し付けたり、都内へ電気を送るために作られた原発の事故の後始末や補償だって十分でない。

奴隷制がなくなったのはこの映画の舞台になった19世紀前半に比べて進歩したのかもしれない。しかしこの痛ましい事件が起きている点で白人(あるいは征服者)の意識はこの時代から変わっていない。他者を所有=征服するという意識がなくならない限り環境問題も人種平等も解決しないだろう。

なぜ就職という現実の前に立ちすくんでしまうのか

これは単なる弱音や不平不満かもしれない。立ちすくんでしまうには自分の内面的な原因だけではない気がする。とにかく自己責任論が跋扈しているこの日本社会。鬱という言葉が一般化したりADHD診断が話題になったり。やっぱり多くの人が生きづらいと感じているから話題になるのではないか。

今まで学校という場に真面目に通い続けてきてはや15年。保育園も合わせれば19年。人生のほとんどの時間を学校という空間で過ごしてきた。そこでは多くのことを学んだ気がするし、多くのことを経験してきた気がする。そして、現在、22歳大学4年生一般的には就活をして就職し社会に出て一人立ちする時期になってしまった。社会に出て働く。生産人口と呼ばれる人たちは6720万人いる。それぞれが自分や家族の生活を支えるために働いて稼いでいる。資本主義社会では当たり前だが資産家でなければ労働をして賃金を得なければ収入が得られない。令和の世には物々交換で生活を成り立たせている日本人はごく一部だろう。学校は学問をする場でもあるが社会へ適合するための訓練所といった面もある。何かしらの知識や技術を身につけてそれを生かして職に就く。経済学的に言えば学習をして自分を商品化し労働市場における市場価値を高めることだ。雇用主は賃金を払って労働者を雇用する。学校には存在していなかった市場原理にいきなり身を晒すことになる。トレードをやっている学生以外にとって経済とはせいぜいアルバイトで得られるお金や親から貰う小遣いをどうやり繰りするかという程度のものだろう。お前の価値はなんだ!どのように企業に利益をもたらす人間になるのか!なんて問われるわけである。それに加えてこの国は商品化されていない人にとことん冷たい。まるでビクトリア朝時代の英国の用ではないか。商品化しか受けられない生活保護を受給する人は非人のように扱われる。サッチャー政権下のイングランドでスターになったザ・スミスのボーカル、モリッシーだって生活保護を受けながら初期は創作活動をしていた。新自由主義は進んだが自由になったのは働かせる側だけだ。それは雇用、非雇用だけの問題ではない。下請け、元請けの企業の間でもその問題は起きている。どんなに働いてもその業種になったらバイト以下の賃金で働かないといけないなんておかしいではないか。だいたい生まれた時から失われた○○年とかやってること自体やる気をなくす。いつまで失ったままでいるつもりなのだろう。社畜になるために一生懸命学校へ行ってきたのだろうか。日本は国の借金で破綻するとか言ってるけど教育や養育費は家計への依存率が先進国の中でトップだ。教育は家の問題だから家計でなんとかしてねということだ。子供は家で育てるべきと考えられているからではないだろうか。社会に出てもう一回学び直そうと思っても学費が高かったり暇がなかったりなかなか現実的でない。中学から大学までの学習の貯金で定年までの仕事をこなしていくのは生産的でないと思う。長時間労働、低賃金とくれば新たに勉強をしようという気力は湧いてこないのではないか。北欧諸国のように高い税率で高福祉を日本で実現しようとしても現実的でないのは税金の使われ方が不透明というのが大きいのではないか。政府の事業で何百億が実体のない企業に流れることがしょっちゅう起きていれば不信感も大きくなる。納税した人が納得できる使い方を可視化できないと北欧諸国のような高負担高福祉は実現できない。コスト削減のもと社会的インフラや福祉が切り捨てられていく。自らの労働力を商品化しなければ文化的で最低限の生活は保証されない。またはどん底に落ちなければ福祉は受けられない。やっぱりこの国には社会という概念が共有されていないじゃいないか。

現実には考えらなければならない問題は山ほどある。しかし、そのほとんどは個人ではどうしようもない。じゃあ考えるのをやめれば楽になるのか。気がついた時には現実的な問題としてこの身を襲うだろう。打算や損得勘定を抜きにありのままで生きられたら完璧でなくても幸せになれるんだろうな。その境地に至るには人生に転んだり考え続けないと到達できないと思う。前向きになろうとかご機嫌でいようとかいうけど自分なりに世の中のことを知ろうとすると暗くなる情報しか手に入らない。日本のクラフトマンシップは江戸時代から貯金を食いつぶし、経済は高度成長期からの貯金を食いつぶしてなんとかやっている。未来に対する不信感が募るばかりだ。人が人として扱われる場が少なくなっているような気もする。同じだけ働いているのに雇用形態がちがうだけで賃金が違うっておかしいよね。矛盾がない社会なんてないけどそこばっか目につて心が苦しくなる。