2020/06/15 日記

農作業中に放送大学を聞いている。黙々と作業するだけでは時間が勿体無いと感じてしまうからだ。少し気になっていたけど本を読むまでにはいかない分野の知識が得られてとても勉強になって楽しい。勿論、デメリットもあって作業後の疲れが尋常じゃなくその後に何もできなって結局プラスマイナスゼロなのかもしれない。特に心理学の講座を聞いていると普段感じている個人的な感情も時代性のある普遍的な悩みだったりすることがわかる。

孤独とメンタルヘルス

最近聞いた中で印象的だったのは増加する現代のうつ病患者という講義だ。うつ病患者が増えているのは世界的な潮流で日本だけの問題ではない。国によってうつ病が引き起こす病はそれぞれでアメリカではアルコール依存症や薬物依存症、肥満へと繋がりやすいということだ。一方日本人は自殺につながることが多い。今、日本ではうつ病が一番の健康を害する要因となっている。癌患者よりうつ病患者の方が多いのだ。物理的なダメージで身体が傷つくのよりも、精神的なダメージによって人々は病んでいるのだ。衣食住が満たされていてもメンタルが皆疲弊しきっている。うつ病がふえている日本での原因はコミュニティーの消失と単身世帯の増加と言われている。また、あなたにとって一番大切な存在はなんですかという質問に対して家族と答える割合がここ20年くらい増加傾向だという。一番小さな共同体である家族以外に拠り所にできるコミュニティが80年代以降消えていってしまったのだ。新宿区は単身者世帯が4割を超えている。東京も人口流入が起こっているものの増えているのは単身者世帯だ。東京では結婚、子育てができず、地方からの流入に任せて人口を維持しているとうい歪な関係がある。今東京で働いている人は忙しくて結婚どころでないという声をネットでよく聞く。極貧層以外の公的な支援は日本は基本的になされない。単身者の中では自分がもしもの時に頼れる人はいますかという質問に対して誰もいないと答えた人が一定数いるとのことだ。そこで家族が最後のセーフティネットとしての機能を果たさなければならい状況になっている。家計を支えている人物がうつ病になったものの休むにも休むことができず、治すことができる病気も治せないというケースが多いという。また日本は会社と家族以外の集団に属している人の割がとても少ない。非常に閉じた人間関係の中で生活しなければならず、別の視点からものを見る機会が少ないというのも人間関係を窮屈にする。SNSがその役割を果たしている面があるので一概には言えないかもしれない。

自立の困難さ

孤独がメンタルヘルスに深刻な影響を及ぼしている一方で個人の自立が困難になっているという問題もある。これは別の講義で聞いたのだが、ある大学生が就活で悩みを抱えていたのだが自分が自立して親元を離れていってしまったら親はバラバラになってしまうのではないかという不安を抱えていたという。親が心配で自分が自立できないという問題だ。家族という存在が軟弱ですぐに崩れてしまうのではないかという不安は私にも理解できる。またDV被害や離婚、結婚生活での不安も増えているという。戦前までは結婚は自由恋愛という面は薄く、家と家の結婚だった。家を継ぐという役割が大きかった。高度成長期ぐらいまではお見合い結婚が多く、親戚のおばさんや親の紹介で結婚することが多かったのだ。自由恋愛で結婚することは素晴らしいことだが恋愛感情は不安定な感情である。夫婦は一番小さな家族の単位でその根底をなすものが情緒的なつながりとなってしまうと不安定にならざるを得ないだろう。二人を同一の存在と考えてしまうことが原因にあるようだ。この親密さが原因で相手の中に自分を見出しその他の部分が顕在化すると拒否反応を起こし暴力にまで発展してしまう。同じことが育児にも起きている。子供と母は別の個体であるから母の思い通りには泣き止んでくれない。そこで泣き止まないことへの怒りや不安をこの子が私を困らせるためにしているのだと思ってしまうことが多いらしい。これは子供の行為を自分の感情から発せられたものと考えることから起きてしまう。実際に赤子が母を困らせるために泣き続けることなんてないのだがそれだけ余裕がない母が多いということだろう。他人と自分の区別がつかず個人の連続として捉えることが増えているのは社会の中で個人が自立することへの不安や恐怖にが大きなっているからだろう。アニメや漫画の中でも人類補完計画や漫画版ナウシカ墓所など全人類が一体となって一つの意識になるという描写が1990年代中頃の作品から見られるようになる。これはメディアが人々に影響を与えたのではなく、人々の意識をメディアが映し出したと考えるのが妥当だろう。

孤独なのに個人が自立ができない社会

孤独と個人として自立できないのは一見すると相反するように見える。この二つは現代社会のメンタルヘルスに大きく関わっているのが問題の根深さを物語っている。まともな心持ちで生きていこうとすると必ず心が破綻してしまう。人々の生活を支えるセーフティネットが社会の中で機能せず、家族の中でその機能が求められていることで家族への依存が深まっている。もっと自由へもっと便利になるはずだったが足場が抜け落ちている状況だ。正直自分がこのような状況で社会に出ることは不安でしかない。できるなら社会に出たくないと願ってしまう。社会の闇を見つめ過ぎなのかもしれないが仕方がない。地元も高齢化で耕作放棄が自分が幼い頃よりも明らかに増えている。子供も減ってきており本当に100年のしないうちに集落がいくつも消えていってしまうのではないかと考えてしまう。東京で働こうと思えば満員電車に乗り狭いマンションの家賃で収入が消えていく。仕事を選ばなければ食っていけることができても心が病んでしまうのでは平和と言えないのではないのか。システムから逃げ出すことは不可能なのだろうか。この二つの講義で紹介されていたクライエントのように社会生活で支障を来している訳ではないがぼんやりと不安は降り積もっていく。なんとなく息が苦しいのだ。自分が感じているこの不安は個人的な感情の発露というよりは社会的な構造や時代の流れによって作り出されたものなのだと心理学の講座を聞いて思った。

「マーウェン」を見て

2018年公開 ロバート・ゼメキス監督

「BTTF」シリーズや「フォレスト・ガンプ」を手がけたゼメキス監督の公開されている作品では最新作。ゼメキス監督は割とご機嫌な作品が多いため、よーしご機嫌になるぞと思って見たがそうではなかった。「キャストアウェイ」も無人島でのシビアなサバイバル生活をギャグを交えて表現していたが、結構笑えないくらい深刻なシーンが多い。エンターテイメント性が高いと言われているゼメキス監督だがシビアな問題が描かれている。重い問題をゼメキス監督の一流の演出、脚本によってエンターテイメントとして見ることができる。

あらすじ

酒場でハイヒールが好きと言った主人公は暴漢に襲われ、それ以前の記憶をなくしてしまう。PTSDの症状に悩まされながら一人で暮らしている。箱庭療法として自分の庭で第二次世界大戦時の小さな村を舞台し、自分と身の回りの女性を模した人形を用いて写真作品を制作している。トラウマを乗り越え現実の中でも自分の人生を取り戻していく物語。

箱庭で描かれていること=自分の内なる欲求

マーウェンを模した人形以外の味方は皆女性であり、男性はナチス兵として出てくる。現実でも少しでも心を開いているのは女性である。人形劇はマッチョイズムとハイヒールが同居するマーウェンにとっての理想世界である。この二つは現実世界では相反する要素だ。彼はなぜ第二次世界大戦時のナチスと米軍との戦いを描き続けるのかと問われると「そのころのアメリカには大義があった。」と答える。ベトナム戦争以降アメリカの起こす戦争は大義を失っていく。彼は第二次世界大戦前後の大義のあるアメリカ像に固執する。アメリカ的なホモソーシャルなマッチョイズムへの憧れ、女性的なものへの憧れが複雑に入り組んでいる。

日本の深夜アニメ的想像力

根暗で友達がいない主人公。しかし友達はいないと言いつつなぜか世話をしてくれる幼馴染やバイト先の先輩がいる。クラスではのけ者にされいるが、実は優れた同人ゲームを作っている。クラスの行事は陽キャが出しゃばるので出たくない。途中で転校生がやってきてなぜか自分の作っている同人ゲームに興味を持って接してくれるのだが...どうだろう、アニメにありそうな設定ではないだろうか。ニコルはお茶に誘ったり創作を親身になって優しく接してくるのでマーウェンはその気になってしまう。マーウェンは結婚しようと言ってしまいもちろん断られてしまう。傷つけるつもりはなかったのとニコルはいうのだが恋愛偏差値0のマーウェンには通じるわけないだろと言いたくなる。こういう女が一番たちが悪い。オタクが一番傷つくやつだ。結局は趣味を共有できる幼馴染と思いが通じる。ハイヒールの収集癖があるというのも男だけど女子キャラにコスプレするオタクの心情に通じるものがあるのではないか。自分はそこまでこじらせてはいないけどそういうカルチャーどっぷりで育ったので見ていて共感もするし、痛々しかった。この物語は「BTTF」のマーティン側の物語ではなく、マーティンが来なかった世界のジョージやドク側の人たちの話だ。

「忘れられた巨人」を読んで

カズオイシグロ

あらすじ

舞台は3世紀から5世紀のアーサー王が無き時代のグレートブリテン島。謎の霧が原因で人々の記憶はぼんやりとしてしまう。ある村の夫婦が息子を探しにいく旅に出る。その途中に鬼に襲われたという少年や若い戦士と出会い旅路を共にする。物語が進むにつれて霧の中に隠されてきた真実が明らかになっていく。静かに忘れかけられていた昔話のように語られることで迫ってくるものがある。

集団の記憶

「記憶」それは個人の私的な記憶であり、民族が持つ歴史的で集団的な記憶。霧は人々の記憶を消し去ることでブリトン人が行ってきた異民族のサクソン人への暴虐を隠蔽してきた。主人公のアクセルはアーサー王時代、法や協定を通じてなんとかブリトン人とサクソン人との融和を図ってきた。アーサー王はこの融和を欺瞞とし、暴力の連鎖を断ち切るために協定を破りサクソン人を虐殺する。この虐殺の記憶を隠蔽するために魔術師マーリンは黒魔術を使い雌竜クエリグの発する霧によって人々の記憶をなくしてしまう。竜退治を唱える老騎士ガウェインは実はアーサー王の甥で忘却の霧の竜の守護者だった。サクソン人の騎士でブリトン人への復習に燃えるウィスタンはガウェインを倒しこの竜を退治する。そして人々には記憶が戻るのである。しかし忘れられていた憎しみや復讐の記憶も戻ることで偽りの平和は消え、ブリテンは戦乱に陥るとウィスタンは言う。法や協定で秩序を守ろうとしたアクセル。敵対するものを根絶やしにすることで不安を解消しようとしたアーサー王アーサー王が築いた秩序を守るための竜クエリグとその守護者ガウェイン。忘却の霧を断ち払い真実の記憶を取り戻そうとするウェスタン。真実を追い求めれば軋轢が生じてしまい暴力へ発展してしまうことが現実でも多く起こる。チトー死後のユーゴスラ紛争がそうだ。私たちの日常でも忘却の霧の中で過去に起きた暴力の隠蔽は起きている。アイヌや沖縄と本土人との関係や在日朝鮮人など。だが現状が仮初めの和解であってもあまりも急進的に記憶を掘り起こしてしまうと分断が進み暴力に発展してしまう。融和は竜を殺すことでも竜の霧の中にいることでも訪れないのである。

英雄なき時代

設定がアーサー王がいなくなったブリテン島となっている。アーサー王は大陸からの侵略者であるゲルマン系のサクソン人からブリテン島を守った英雄である。その人物をサクソン人側から描くことで英雄という存在の二面性を描いている。ある集団にとって英雄であった人物は別の側面から見たら残酷な支配者でしかない。多極化が進んだ現代ではもはや英雄像は存在しない。世界に平穏をもたらしていたのは勇ましいアーサー王ではなく、法や協定を重んじていたアクセルだった。アクセルは同じ老騎士ガウェインと比べて妻を愛する平凡な老人として描かれる。クエリグを退治しサクソン人として正義を貫いたウィスタンも結果としてブリトン人への憎しみの連鎖を再び始めてしまうことになる。平和をもたらしたのは英雄的行為ではなく外交や交渉が得意だったアクセルだったのだ。

 

 

 

2020/06/12 日記

今日は午前中、蒔いた小豆が十分に育ったので苗を畑に植え付けに行った。だいたい150本くらい植えた。蒸し暑くて異常に喉が渇いて体力が奪われた。暑さだけじゃなくて湿度も体力を奪う要素なんだなと実感した。梅雨ってジメジメして鬱陶しい季節だけど、白州の気候だと甲府や相模原と比べるとそこまで蒸し暑くない。植物がたくさん水分を蓄え生命力に溢れる季節だ。山の緑が新緑の明るい緑から一気に深い緑になってゆく。山には靄がかかり湿度がうんと高くなる。地上はまるで水の中のように空気に重みを感じる。植物の存在感が人間を圧倒し、山々は普段よりも大きく近くになったようだ。草叢は生い茂り作物を圧倒するそんな季節がやってきた。市街地では味わえない本来の梅雨。

 

「風土ー人類学的考察」を読んで

和辻哲郎著 

グローバル社会にとっての風土

高校の現代文で扱った文章で文明には牧場型と砂漠型とモンスーン型があることが書いてあったのを覚えている。勿論人の性格やその国の特徴をステレオタイプを語ることは危険なことである。和辻がこの論考を書いたのは1930年代だ。外国との行き来が今とは比べものにならないほど困難な時代であった。そんな時代の中で世界を見て周り鋭い洞察力と幅広い知識を持って書き上げたのがこの本だ。白人至上主義の下欧米列強による植民地主義が世界を支配していた。黒人、アジア人は白人よりも劣った人種であり支配されて当然であるなんて考えがまかり通っていた。ヨーロッパ至上主義に反発し、それぞれの文明を風土によって相対化することが一つの目標だったのだろう。その国の文化は文字情報や旅行者の印象からでは理解に限界がある。どんなに異なった文化でもその土地に赴けば体感的に理解できる。その土地の光、空気、風景が教えてくれる。今アメリカや西欧諸国で大規模な植民地主義時代の歴史上の人物の銅像の打ちこわしが起きている。支配層にとっては偉人だが被支配層にとってはただの侵略者だ。大航海時代からの歴史の流れの転換点に今はあるのかもしれない。文化の差異は優劣ではなくその人たちが長い時間をかけて風土とともに形作ってきたものだ。これは異なった文化的背景を持った人たちが共に暮らしていく現代社会にとって重要なメッセージではないか。

人新世時代のの風土

芸術がその土地独自の形式を持ち得たのは過去の話とある。この時でもある程度は文化レベルでグローバル化が進んでいたということだ。それから更に時代が進み世界はもう近代文明一筋といった様相である。都市化がすすみ世界の大都市は高層ビルが立ち並び一見するとどこの国かわからないという現状だ。中心部だけでなく郊外も同じようなチェーン店が建ち並んでいる。生活のインスタント化が進み世界中であまり差異のないの生活様式が定着している。1世紀前よりも人々の暮らす環境は明らかに均質化している。人間の意識、文化は風土からの影響は少なくなっていると言えるではないか。そして人類の経済活動、生産活動によって気候変動が起き、人々の生活にも深刻な影響を与えている。これまで長い時間をかけて築き上げられた風土と人との関係が気候変動のよって変わってしまうのではないだろうか。人類が引き起こした気候変動によって人新世型の文化形態ができるのかもしれない。

 

 

 

 

2020/06/10 日記

一日に2本も映画見てしまい、まさに暇な大学生だ。映画を見て、本を読んで感じたことを言葉にするようになった。いつまで続くか分からないができる範囲で続けてみたい。一度言葉にすることを覚えてしまうと頭の中で文章が溢れかえって現実がよく見えなくなってしまう。ただひたすらにインプットをしそれを言葉にする日々は職についたら決して戻ることはできない日々だろう。そんな贅沢な日々を送っているわけだが現実には社会に何も働きかけていないわけで自分とは何者でもない透明な存在である。いくらありがたい言葉をインプットしても行動に移さなければ意味がないのでないかと考えてしまう。一人でじっくり本や映画に向き合えることは幸せなことだ。今文章を書いていることが今後の人生で仕事に繋がったらいいななんて打算的なことを考えてしまう。いくら物語が前向きに人生を歩もうといっても自分は何にもできない生ぬるい環境にいるただの大学生ではないかと考えてしまう。自分ではどうにもならない問題が多すぎる。頭は使えば使っただけ賢くなるというからいろんなものを見て考えている今は無駄な時間ではないのかもしれない。知識は多くても困ることはない。社会から切り離されひたすらインプットをしていることの意味はいまは楽しいというより求めているからしているという気持ちだ。この時代の自分がこんなことをしていたのはこんな意味があったのか気づくのはいつも過去を振り返った時だ。テレビの中、新聞の中にも現実は潜んでいるが勿論映画の中にも現実はある。フィクションの受け入れ方と現実の理解の仕方は全く違うものではなく同じものと考える。ニュース記事も小説も現実を見て、それを人の頭を介して記述したものだからだ。ものの考え方、捉え方を学ぶことはわかりやすい効果や利益があるわけではない。

文章に記述することでぼんやりと現れては消えていった考えがはっきりしてきた。またわかりやすい文章を書くのは難しい。今まで美術学生といことで文章を書くということを疎かにしてきた。考えをまとめることができるということは思考に影響を与えるような気がする。スケッチもある種の世界の捉え方だが、文書を書くことで自分の考えがなんとなく見えてくるような気がする。文章は思考に影響を与え、思考は手に影響を与える。デザイナーもアーティストも文章をかけなければならないと思う。学生の作品のキャプションは全体としてはなんとく言いたいことはわかるんだけどなんだかよくわからないことが多い。自分がどんな文脈でどんなことをしているか自覚することは必要なことだと思う。美大生は思考を手に頼りがちである言葉でもデザインはされている。自分もこのまま社会に出ていいのだろうかとうい不安がつきまとう。大学四年間で学んだことはその分野のほんの一部でしかなかったという気持ちが強くなってくる。一体これまで何を学んできたのだろうか、学んだことで何ができるのだろうか先が見えない。デザイン課題では最善のものを作ろうと自分なりに努力してきたつもりだ。だが大学内での評価になんの意味があるのだろうか。社会から見たらお遊びに見えるかもしれない。デザインや建築の実務的な部分を学ぶ場ではないのだと今更ながら気づく。実務的なこと学びたいのなら専門学校で十分だろう。考え方、ものの捉え方は身につけたからといっても明日から役に立ちますよというものではない。一つのジャンルのことを考え続けることが苦手な自分にとっては大学という場はあっていたのかななんて思う。ついつい隣の分野が気になってしまう質なのだ。物事はそれ単体では成り立つことなどあり得ない。形や色は流行り廃りがあるし教える側の癖を押し付けないためにも、なぜそのものが成り立っているのかを重視しているのだろう。また考え方を身につければ違うジャンルでも活かすことができる。世界は広いし人生は長いデザイン史、建築史の中にある世界だけが世界ではない。そういうことを学んできたのか。専門的な技術や知識も多少は身についたかもしれない。大学生ならではの体験も色々できた気がする。友達もできたし大切な人もできた。大学なんて大したことないよってモラトリアムだよっていう人もいる。あくせく働いた親の金を四年間使って好きなことをする。時には怠けてしまうし、気がめいってしまうこともある。日本の大学のレベルは海外に比べて低いとも言われている。自分の歩く道がわからない状態ではどっちに足を進めれば良いのかわからず立ち竦んでしまう。デザイン課題はデザインやプレゼンを身につける場ではなくて自分を見つめる機会だったのか。自分が好きなものは意識的に課題の中に組み込むようにした。積極的に受け入れるようにした。そうすればなぜ自分がそれが好きでどこが好きなのかが見えてくる気がしたのだ。まだ歩むべき道ははっきりしないが見えてきてはいる。そんな気がする。他人のいうことは所詮他人のいうことだ。せっかく見てきたのだから自分を信じているものに従って生きていた方が良いのでないのか。自分の中で理想的な暮らしはぼんやりとイメージがある。企業につとめデザイナーとして働くのは今までアルバイトをしてきてなんとなく抵抗感があるのだ。都市の装飾だけの存在を作りたくない。これまでの資本主義の循環の一部でしかないのは抵抗がある。これからの時代に大量生産、消費、廃棄なんてしてられない。インテリアの更新には大量のゴミが出る。流行とともに数カ月で作りなくなってしまうインテリアという存在は過去のものになってしまう時代がくるのだろうか。自分の暮らし、人生を含めてデザインできる生き方をしたい。消費文化の中にあるインテリアが本当に自分にあっているのだろうかわからなくなってきた。ある意味長い時間の中でどうあるのかを考え地域性を重んじる民芸とは対局の存在なのではないのか。これからの時代はプロダクトに限らずものづくりは民芸的な思考を持って作らないと人類が暮らせない地球になってしまうということまで来てしまったのではないだろうか。作る人と使う人の都合だけではもはや作ることはしてはならない。それもただブルジョワジーの趣味に終始してはならない。とか考えたけどよくわかんないな、デザインはパソコンの画面の中で行われるべきでないと思うしそんなの綺麗事だよっていう人もいる。一人で東京で身を削ってやっていく自信がないだけかもしれない。

「ホドロフスキーのDUNE」を見て

こんな人にオススメ 人生に悩んでいる人

          SFが好きな人

監督フランク・パヴィッチ 2014年公開

こんな映画

「エル・トポ」や「ホーリーマウンテン」などのアートムービーで1970年代注目されていたホドロフスキーが世界最高の映画を撮ろうと世界最高峰のスタッフを集める。俳優にはサルバドール・ダリミック・ジャガー、オーサン・ウェルズなど歴史的の人物ばかり。絵コンテにはバンド・デシネ作家のメビウス。美術、デザインにはエイリアンのデザインをしたギーガー。音楽はピンク・フロイドを起用している。あの手この手を使って各界のスターを口説き落としていく。様々な困難を超えて企画者を完成させ、ハリウッドの映画制作会社にプレゼンをする。しかし、企画の完成度は認められるものの企画の壮大さに会社がついていけず制作に手をあげるものはいなかった。予算1500万ドル、上映時間12時間という超大作である。結局この企画は頓挫してしまいホドロフスキーは深いショックを受ける。制作することなく終わってしまった一本の映画を巡るドキュメンタリー映画である。

 

未完の大作「DUNE」の影響力

映画は作られなかったがホドロフスキーが「DUNE」の制作を通じてスタッフの意識を変革したことによってのちの数々の名作が作られた。「DUNE」完成しなかったが数々の作品のクリエイティブのタネを蒔いたのだ。絵コンテを担当していたメビウスの本業であるバンド・デシネにはもちろん、スターウォーズブレードランナーマトリックスなど影響力は凄まじい。現在のSF的視覚表現は「DUNE」によって土台が作られたといっても過言ではない。今まで見たことがある作品のイメージは、プレゼンのためハリウッド中に配った企画書の中から生まれた。「DUNE」の中で主人公が肉体は殺されても意識となり人類の中で生き続けたように、のちの世界中の文化の中で生き続けているのだ。

ホドロフスキー監督の魅力

狂気的にも見える創造への情熱が凄まじい。彼はこの映画を見た人が意識が変革するような、世界をかえるような映画を求めていた。「世界を照らすものは、自分の身を焼かなければならない。」と語っていた。監督が身を削って作った完璧な企画が資金面で制作が中止されたら普通だったら恨み節で終わるかもしれない。しかしホドロフスキーは違う。「失敗しても構わない。それも一つの選択だ。」と語る。地位や名声を求めるのでなく、人類の営みの一部として自分の創作を考えている。クリエティブの考えているスケールの大きさに驚かされる。彼にとってアートとは1、光と陰、理由と結果などの物事の両義性を表現するもの。2、人生、人間は素晴らしいと人々に伝えるもの。本当のアートはその時は理解されなかったが30年、40年をへてやっと多くの人に伝わると語っていた。偉大なアーティストだが謙虚で自分のエゴをすて自分の信じる道を歩いている。純粋に真摯に作品を作っているアーティストは世界を見てもそういないだろう。彼の作品を知ってからまだ2ヶ月ほどだがクリエイターを目指す身としては彼の人類、創作に対する思いは今後の人生の指針にしたい。